建物・辰野金吾

辰野金吾と南天苑

明治大正期に、東京駅や日本銀行本店など、近代日本を代表する西洋建築を数多く手がけた辰野金吾氏。数ある氏の作品の中でも、希少な和風建築のひとつに南天苑があります。数寄屋風の内装はシンプルに構成され、随所に茶室建築を思わせる侘び寂びの意匠がほどこされています。明治大正期に、東京駅や日本銀行本店など、近代日本を代表する西洋建築を数多く手がけた辰野金吾氏。
数ある氏の作品の中でも、希少な和風建築のひとつに南天苑があります。
数寄屋風の内装はシンプルに構成され、随所に茶室建築を思わせる侘び寂びの意匠がほどこされています。

建築家・辰野金吾氏
建築家・辰野金吾氏〔1854(安政1)~1919(大正8)〕
工部大学校(東大)卒。英人コンドルに学び、イギリスに留学後、1884(明治17)東大に日本建築の講座を設け、'98東大工科大学長。明治期建築界の開拓者・指導者として活躍。主建築に1896日本銀行本店、1914(大正3)東京駅がある。【コンサイス日本人名事典】
南天苑 外観

1913

History
  • 娯楽保養施設「潮湯」
  • 娯楽保養施設「潮湯」
潮湯 竣成
堺市大浜公園に娯楽保養施設として建設された「潮湯」。設計は辰野氏率いる辰野片岡建築事務所でした。この別館で、家族向けの入浴・遊戯・休憩施設だった「家族湯」が、南天苑本館になります。右の写真、洋風建築の潮湯本館は戦時中に焼失。移築された別館だけが南天苑本館として現在に姿を留めることになります。

1935

別館 松虫花壇
天見温泉に移築竣成
1934年室戸台風で破損したことを機に、
1935年、南海電鉄が「潮湯家族湯」を古来より鉱泉の湧く天見へ移築。同年、大阪の松虫花壇が別館として営業を開始。

1949

南天苑創業
戦時中、奢侈を控える風潮にて松虫花壇別館が閉館。戦後、空白の期間を経て、1949年に南天苑として創業いたします。この頃から、大浜「潮湯家族湯」の移築話は口承となり、辰野金吾氏設計説は真実が明らかにならぬまま現代に至りました。
南天苑創業当時

2002

明治建築研究会による調査開始
2002年、柴田正巳氏が代表する明治建築研究会が南天苑の調査を開始します。南天苑本館と「潮湯家族湯」との関係が照合されてゆく南海電鉄資料室から戦前の移築当時の資料が発見され、潮湯別館の移築であることが証明されました。
潮湯の観光案内 南天苑本館の外観

2003

国の登録有形文化財に指定
口承だった辰野金吾設計説が確実な資料のもとに証明され、2003年、「歴史的な様式をとどめ、現代に残る近代建築である」という理由で、国の登録有形文化財に指定。
旅館業を営みつつ生きた文化遺産として後世にその姿を伝えることになりました。
登録有形文化財

歴史資料一覧

※クリックで拡大します

PAGE TOP