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南天苑本館建物『辰野金吾設計説』


辰野金吾
辰野金吾(たつの・きんご)
〔1854(安政1)〜1919(大正8)〕明治・大正期の建築家。辰野隆の父。肥前(佐賀県)出身。工部大学校(東大)卒。英人コンドルに学び、イギリスに留学後、1884(明治17)東大に日本建築の講座を設け、'98東大工科大学長。1902退官し、翌年、辰野葛西建築事務所を創立。'05大阪辰野片岡建築事務所を創立。建築学会会長もつとめた。明治期建築界の開拓者・指導者である。
主建築に1896日本銀行本店、1914(大正3)東京駅がある。【コンサイス日本人名事典】



私自身…
南天苑の建物に関する来歴は、口頭による伝承でしか聞き及んでいなかった…。
私が記憶するところでは、先代である父から、「堺大浜の汐(潮)湯が昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊したため、その材料を使い、そっくりそのままの形で、翌、昭和10年頃(1935)に移築した」というものだ。
このたび、2002年9月5日「明治建築研究会」柴田正巳代表らによって、第一回目の調査が行われた。
それによれば、移築はほぼ確実であり、もし潮湯(「潮湯別館」または「潮湯家族湯」)の建物であることを実証できれば、日本銀行本店(1898)東京駅(1914)をはじめ、中之島中央公会堂の設計にも参加した、日本の明治・大正時代を代表する建築家・辰野金吾設計による建築であることは間違いないという。
古写真に残る建物外観は、きわめてよく酷似しており、今後は、南天苑・潮湯移築説の伝承を裏付ける実証調査が期待される。


●読売新聞2002.9.12

潮湯とは、当時、銭湯を兼ね、娯楽設備を有した施設で、辰野金吾は、堺大浜潮湯を1912に手がけている。なおこれは洋館の建物で太平洋戦争時の大阪空襲で焼失した。
今回、注目されたのはこ潮湯の付属建物とされている「堺大浜潮湯拡張建物(1913)」で、辰野が手がけた数少ない和風建築である。潮湯においては、おもに家族向けに建設されたもののようだ。この潮湯・家族湯は、本館焼失をさかのぼる1934年に室戸台風で倒壊し、その翌年に、ここ天見に移築されたことが、伝承として残っていたのだが、今日まで調査される機会に恵まれず、現在に至っていた。


  ●大阪日日新聞2002.9.7


●朝日新聞2002.9.17



●写真中央が潮湯本館、
写真右印が潮湯別館。
(写真資料「写真で見る堺明治100年の
歩み」堺市図書館蔵)



【潮湯別館・家族湯/拡大】



【昭和30年代の南天苑外観】


今回、柴田氏らの働きかけで、はじめて潮湯移築説がとりあげられ、しかも日本を代表する建築家の作品ではないかという調査が進められている。このことは、この建物の中で生まれ、育った私にとっては、この建物に一筋の光をあてていただいた柴田氏らの活動に感謝するとともに、あたかも肉親の受賞か何か…、候補にでもされたかのような喜びを感じてしまう。
関西テレビ620ほっとカンサイ 放映
(2002年9月25日水曜日・「山あいの旅館は明治の名建築か」)
(2002年10月1日火曜日・「あの旅館はやはり名建築だった」)



考えてみれば、1949年(昭和24)の創業以来50余年にわたって、父子二代で、この館を守ってきたものにとっては感慨深いものがある。老朽による雨漏り、傾き、そのほか、いかにしても現在の生活、住環境の快適性とそぐわぬ大正年間の建物を維持、管理してゆくことの難しさに思い悩まされることが、いわば日常化していると言っても過言ではない。しかもその修繕には、いつも莫大な資金を必要とする。実際に旅館として機能しているかぎり、経営効率を高め、なおかつ顧客の住空間としての近代的な快適性を追求してゆかねばならないという、いわば相反する命題に常に向き合っていかなければならないのであって、時代によっては、周囲から近代化、建て替えの要望の声もあり、この建物自体の機能性が、常に俎上の論議となったことはいうまでもない。




【堺大浜潮湯(別館)創業時の写真】



【昭和初期・潮湯(別館) 河内長野市在住・M氏蔵】
   看板にはおぼろげに「家族湯」と書いてあることがわかる。



【潮湯創業当時の観光案内】
   内部の間取り、各部屋の使い方も現在とほとんど同じなのには実際驚かされる。




【現在の南天苑外観】


1965〜1975年(昭和40年代)、高度成長と使い捨て文化の世相の中で、大阪での日本万国博を機に、近畿圏内のホテル・旅館はこぞって規模拡大、収容力の増強を図っていた。私の父はついに内部改装に着手し、収容力増強の為、年代物の床の間や、すばらしい細工の欄間などが次々に取り壊されていったことを子供心に記憶している。



【昭和20年代・南天苑ダンスフロア】



【昭和20年代・南天苑大広間】




廊下、天井、大広間、客室18室あるうちの10室まで改装を終えたころ、南天苑改装中のうわさを聞きつけた、時の河内長野市市長・I氏が「山崎さん…そんなもったいなことしたらあかん…。」と、わざわざ駆けつけて忠告していただいたという..。
古きよき時代を物語るエピソ−ドだと思う。その後、父が内部改装することは二度となかった。





1980年以降、前述の快適性と前時代性の融合を計る課題は遅々とし、加速度を増す先進的な時代背景の中では、牛歩のごときのろさに映っただろう。
そんな状況の中で、励まされ、挫けそうになる意識を常に奮い立たせてくれたのは、日ごろご贔屓いただいているお客様の方々の声だということを忘れてはいない。
「大事にしなはれ。」「こんなとこ、もう何処にもないわ、」…。
たしかに縁側のガラス戸をガラリと開けて、山々の、緑いっぱいの自然の空気を肌で感じながら食事を楽しめる場所など、もう大阪では見当たらない..。
課題は…、いまだに私の目の前に残ったままだが、「大事にしなはれ!」の言葉どおり、明治・大正の名建築家の建物と、父が残してくれた南天苑の暖簾を、これからも守り続けてゆこうと思っている。

                              28.Sep.2002  店主






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