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店主思い入れの地探訪


第四回 天見散策(その一)

京都を起点とする東高野街道と、大阪高麗橋から堺を経て南下する西高
野街道は、長野で合流し、三日市、天見を通り、紀見峠を越えて紀州路へ
と入る。天見を通るこの街道は、民衆の高野もうでの道であったが、大阪
との通商の道でもあった。(天見小学校百周年記念誌:天見の史跡、史話
より引用)

天見は古来より交通の要衝であった。峠の周辺からは弥生土器や中世の
土器が出土することから、その時代にすでにここで生活が営まれていたこ
とをうかがわせる。今回はその天見の中でも最古の集落とされる流谷(な
がれたに)を探訪する。





● 流谷夏の道● 
天見流谷は、大阪から和歌山県橋本市に至る国道371号の西側に位地し岩湧山、唐久谷に通じている。この集落は源氏に敗れた平氏の落ち武者が逃れて住みついたといい、また後述する十三仏の伝説からキリシタンが隠れ住んだともいう、草深い地域でありながら歴史は古く、隠れ里としての伝説が色濃く残っている。






● 椎の木 ●

流谷から林道棒谷線に残る椎の木、別に何の史実がある訳ではない。私が小学生の頃、夏休みに村の上級生や従兄とカブトムシ採りをした時、この椎の木が採取の穴場だった。ほんの数年前、昆虫採集に興味を示した自分の息子や娘を連れてここを訪れた時、その木の見事な成長ぶりに驚かされた。考えればあれから30年以上の月日が経っているのだ..





小学生の頃の夏休みはその殆どが昆虫採集に明け暮れた。どちらかといえば飼育がおもしろく標本は苦手だったし作った記憶もない。中出橋は夕暮れ近くになればここで足を休め、橋の手摺に座り込み、みんなで朝から採ったカブトやクワガタの収穫の成果報告や品評会をした場所だ。時々分け前のことで仲間割れしたり..その周辺にはいつもプラスチック製の水鉄砲があったりス−パ−ボ−ルがあったように思う。
● 中出橋 ●





● 八幡神社から流谷を望む ● 


あの頃、同い歳の従兄と何度もこの道を登った。陽炎がゆらめこうが、日射が頭をじりじりと焼こうが、何程の苦にも感じなかった。ちなみに、その従兄はある時期東京で一緒になったが現在、アメリカで永住権を取りロサンゼルスで暮らしている。私だけが故郷に帰ってきた。彼は遠く離れた空の下で、昔歩いたこの道を思い出すことがあるだろうか?




● 流谷八幡神社 ● 


祭神は息長足姫命、品陀和気命、玉依比売命を祀っている。と史書にある。創始は石清水八幡宮の神体を勧請して長暦3年(1039)と伝えられている。この神社に1つの湯釜が伝わっており、延元5年(1340)にこの神社のために造られたという銘文が刻まれている。この釜は大阪府の文化財に指定されている。





● 勧請杉と注連縄 ● 
  
毎年正月6日(現在は日曜日)この杉の古木から社殿側の柿の木まで注連縄が張り渡される。この縄がいつ切れるかでその年の豊作を占うのだという。この縄が風雨に耐え収穫の頃まで切れずに残ればその年は豊作とされている。今回取材したのは7月の下旬だが綱は見事に切れて谷底に落ちていた。今年の出来はよくないのだろうか? 




● 極楽湯(天見温泉)の起源 ●

延元の頃(1336〜1340)の僧、法印賢覚が流谷八幡の境内に萱葺の温泉浴室を建て、付近から湧出する鉱泉を汲み、薬草を混合して沸かし、病弱に苦しむ老若男女を救った。という記録はこの近くの旧家の文献に残っている。寛延3年(1750年)大火により焼失、村の庄屋等によって再建が試みられるが実らず、昭和8年南海電鉄によって高野線天見駅前に南天苑の前身として復興された。太平洋戦争中に休止を余儀なくされたが昭和24年に先代である私の実父が天見温泉南天苑として開業した。戦後間もなくは数件の温泉旅館が相次いで営業したが、現在は当館1軒だけが残り、天見温泉の伝統を伝える。
 八幡神社の石鳥居 ●







● 天然記念物の銀杏(大阪府指定) ●




八幡神社境内にある銀杏(いちょう)の大木は樹齢は700年以上ともいわれ、源頼朝公の寄進と伝えられる。私に古木鑑賞の趣味はあまりないのだが、その威容にはさすがに圧倒させられる。花を生けるときは自然の姿を師として生ける。天見には師とするべき自然の姿を本当に多く目にすることができる。風雪に耐え、自らの枝葉の重力に逆らわない、幾数百年の間に死枝も存在するのである。私の古木鑑賞はやはり生けるための鑑賞に変わってゆく、そんなことができるかどうかは別にして...。


八幡神社からさらに流谷にそって入ると薬師堂があり月輪寺という寺の跡であるとういう。十三仏碑とは、初七日から三十三回忌まで13回の追善供養に各々あてられた仏や菩薩のことである。この碑には承応2年(1653)の年号と数人の戒名が刻まれており「テウロ」「シタニ」などの名が見られキリシタンの洗礼名ではないかと言われている。もっと近影するべきだが背後の稲の緑が美しい。

● 十三仏碑 ●






  ● 十六経塚 ●
    
流谷山中には修験道の祖、役行者が法華経二十八品を埋納したと伝えられる葛城修験道二十八宿の行場のうちの2個所がある。流谷金剛童子塚(第16経塚)と天見不動経塚(第17経塚)がそれである。いずれも林道流谷線から少し脇道に外れた山中にあるが、近所の老婆もすでにあやふやで「大体、あの辺りにある」と指さして教えて貰った所をよじ登って探し当てた。うっそうとした杉木立の中に祠らしきものも朽ちかけている。山岳修験の道に役行者(役小角)は何を見出したのだろう。第1回「思い入れ..」の観心寺然り、第2回滝畑の光滝寺然り、700年代の人物役行者の行動には興味をそそるものがある。よくよく十六経塚の薮を振り返って眺めればそこから何らか霊パワ−のようなものを感じるのは考えすぎか、おそらくこの後の取材でも幾度となく出会うことを予期させる。


参考資料
:河内長野市立天見小学校百周年記念誌 記念誌編集委員会
:天見地区の民話 大阪府河内長野市教育委員会
:河内長野 わがまち発見I (株)リブロポ−ト



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