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店主思い入れの地探訪
◆第7回◆


楠木正成を追っかける−その2−(神戸市)

延元一・建武二(1336)年、後醍醐天皇の建武の中興は失敗に終わった。
新政に叛旗を翻した足利尊氏はいったん京で楠木正成の軍に敗れるが、
九州で再び勢力を盛り返し、捲土重来、海路と陸路より大軍勢を進めた。
総大将尊氏は水軍を指揮し、陸路はその弟、直義が指揮する、その数10
万旗とも50万旗ともいう。一方迎え撃つ宮方の総大将は新田義貞1万余
旗、楠木正成700旗、かくして世に言う湊川の合戦は幕を開ける。
  今回の思い入れの地は「南河内の郷土紹介」という重要な目的から大き
く逸脱し楠木正成を追っかける行きがかり上、その終焉の地である兵庫県
神戸市周辺を探訪する。



六甲の山並み
阪神高速5号線、いわゆる湾岸道路を使えば神戸市へは大阪の南端である天見からでも約1時間程度で行ける。ハイウェイの車上から六甲の山並みを見る。河内平野、金剛、葛城山系を見て育ち、その山々を味方にして勝利を得た楠木正成にとって、自ら死地に赴くことを予期して行軍する傍らに終始連なるこの六甲の山系はいかに見えたのだろう?。金剛山千早城の勝利からわずか3年後のことだ。


兵庫の沖(淡路島ハイウェイオアシスより望む)
写真中央、鉢伏山の東方(右側)が須磨海岸。神戸市内はさらにその東方になる。5月25日早暁、兵庫の沖合は足利軍の軍船、兵船で埋め尽くされた。「烟波眇々(えんはびょうびょう)たる海の面、十四、五里がほどに漕ぎ連ねて、舷(ふなばた)を輾(きし)り、艫舳(ともへ)を並べたれば、海上にわかに陸地となって、帆影に見ゆる山もなし、あなおびただし」と、太平記は記す。やがて沖合いの船が太鼓を鳴らして鬨の声をあげると陸路を進むからめ手の軍勢50万騎も相呼応し、それを合図に足利軍の上陸作戦は開始された。








会下山(えげやま)
会下山は湊川合戦における楠木軍陣地であり、標高85m、眼下に播磨街道、神戸、須磨の海上を遥かに見渡せる合戦上の要所である。ここにも空虚な空間が広がり、思い入れの地カルトな私の心を揺さぶってくれる。現在は会下山公園ジョギングコ−スとなり神戸市民の憩い場として親しまれている。明治時代、日本海海戦でロシア艦隊を破り、日露戦争を勝利に導いた東郷平八郎直筆の「大楠公湊川陣之遺蹟」と刻まれた記念碑が建つ。 
  先に、千早城址、下赤阪城址を紹介したが、何か正成の陣地に対する好みがあるような気がした。戦場の陣地というのはもちろんその地勢や兵数など、機能が優先されるのだから、どこも、誰が選んでも同じようなことになるのは当然のこととは思うのだが、会下山陣址に立ったときに何か懐かしく思えたのはどういうことだ? 








 会下山
足利軍、細川定禅の部隊が経島上陸に失敗、上陸先を紺部(神戸)に変更したことによって迎え撃つ新田軍も部隊を生田の森付近へ移動させた、この行動が太平記の描写によれば「船の敵勢は自然と前進する勢いに見え、陸の官軍はもっぱら退却するように見えることになった。」という、戦場における勝敗の機微とはそういうものかもしれない。海と陸との両軍は互いに相手の隙をうかがい合って軍を遥か離れた浜に移動したため和田岬周辺から官軍の主力である新田軍は消え、正成の部隊だけが会下山に取り残される格好になった。この間に総大将尊氏は駒ヶ林に無血上陸をはたしている。 





蓮池
湊川合戦において楠木軍が足利直義の軍を急追した最激戦地、近年埋め立てられ市民運動場となっていたが先の震災の後再び開発され、現在は一大工事現場と化している。午前10時頃、主力と分断された正成以下700余騎は孤立無援のまま須磨口より進攻してきた兵数10倍以上の直義軍に対し戦闘を繰り広げる、その猛攻は壮絶を極め、突撃回数16度を数え、ついに直義軍は須磨の上野まで後退を余儀なくされ た。



    
大楠公像(湊川公園)
近代日本国家のシンボルとしての楠木正成と庶民の英雄としてのイメ−ジは整合し、偉大な銅像があたかも怒天を突くかのような勇姿で建立されている。楠にまつわる地名も多く、この地域の人々の正成への人気の高さを推し量ることができる。本来、私が持っている正成像は宋学を学び大江時親流の兵法に通じる智謀、知略の人で、武勇、武者振りの猛々しい人という印象はない。しかしこの湊川の陣において正成の獅子奮迅の戦闘はおそらくこの馬上の姿そのものであったにちがいない。


湊川公園
本来、南河内周辺を探訪すべき「思い入れの地探訪」だが楠木正成を追いかけているうちに神戸市湊川まで来てしまった。何度か神戸を訪ねたことはあるがここに立ち寄るのははじめてのことだ。旧暦の5月25日は新暦の7月12日にあたる、日は西に傾き始め初夏の暑い1日もようやく終わろうとしていた。6時間にも及ぶ激闘は日本の合戦史上でも稀であるという、正成は尊氏が上陸後、本営としていたとみられる宝満寺に対して残る勢力で最後の攻撃を敢行するが楠木軍の兵力消耗の度は覆い難く、次第に足利軍に包囲されてゆく。




湊川神社
明治天皇の創祀により明治5年(1872)に神社が創建された。現在の御社殿は戦災によって焼失したものを昭和27年に復興されたものだ。写真は多聞通りに対して立つ表門、門を通り、左手すぐに宝物殿があり、大楠公着用伝承の段威胴丸(重文)が展示されている。正成が割腹にあたり鎧を脱いでみるとその体に創傷が十一ヵ所もあったということが太平記の記述にある、伝承の鎧がその史実をそのまま物語るものではないが、その当時の人の体型や体格、甲冑の運動性など想起、連想させるもの多く興味は尽きない。


楠木正成公戦没地
壮麗な湊川神社の最奥、境内西北側に楠公戦没地はある。正成は一族十六騎、郎党六十余人と共にこの周辺の地で自刃する、43歳だった。正成の首は一度は六条河原に梟首されるがその後、敵将尊氏によって河内の遺族のもとに届けられている、こうした尊氏の配慮はこの当時の習慣としても異例で、正成の存在をどのような目で見ていたかが伺える。湊川で正成を失った建武政権はその後崩壊、後醍醐天皇は京都を追われ、再び京都で玉座につくことはできなかった。

 正成は合戦の前に「今度の君の戦い必ず破るべし正成和泉河内の守護として勅命を蒙る間、軍勢を催すに、親類一族、猶もって難渋の色あり。いかに況や国の人民においておや...」という言葉を残している。戦略的に人民の世論を味方につけられぬ戦いは勝てる道理がないと言いきっているのだ、戦略的な不利を戦術面で打開すべく後醍醐朝に再三の献策をするがそれも退けられ「勝つ」という勝負の最終目標を見失ったままの絶望の中での戦いだったといえる。正成にとっての湊川の合戦は正成自らの存在証明のための戦い以外のなにものでもなかったであろう。正成終焉の地は晩秋の木漏れ日のなかにひっそりと静寂につつまれていた。 






参考資料 
吉川英治 著 「私本太平記8」 講談社
吉川英治 著「随筆私本太平記」 講談社
山崎正和 訳 「太平記」 河出書房新社
童門冬二 著 「楠木正成」 成美堂出版
NHK取材班編 「堂々日本史9」 中央出版
司馬遼太郎 著 「司馬遼太郎の日本史探訪」 角川文庫
司馬遼太郎 著 「手掘り日本史」 集英社文庫
歴史群像シリ−ズ(10)戦乱南北朝 学研
 

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