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店主思い入れの地探訪
◆第8回◆

−高野山−(和歌山県高野町)

17.Jan.2001
高野の町を歩くのは身
も骨も凍りつく極寒の
季節こそふさわしい。

厳寒の高野山を訪ねる...。
何を好きこのんでこの時期に...
と、言われるかもしれない。
もちろん色とりどりの花咲く頃に訪れても
霊験ある地にちがいないのだけれども、
ただこの寒冷極まる季節にしか感じとれぬものが
何かあるような予感にとらわれて出かけたのでした。


南海高野線の車窓から
 平安時代にこの山中に真言密教の聖地を開いた弘法大師空海の偉大な業績はいうまでもないが、その高野山に線路を敷いた南海電鉄の業績もまた立派なものだ。まさに「道無き道に道をつけ...」の感がある。
 見る見る見下ろされてゆく民家の屋根、まさに下界を隔絶してゆくように思う。





高野山へは南天苑のある南海高野線天見駅から極楽橋まで急行(ただし各駅停車)で約50分、極楽橋駅からケ−ブルカ−乗り換えで高野山駅まで標高差500mを約5分で登る。高野山駅からはバス利用、約10分から20分程度で高野山内の主要な場所にたどり着くことができる。観光には南海バス発行の1日フリ−パスひとり800円(平成13年1月現在)が便利だ。





   
大門
 高野山には七つの登山口がある。この大門はその1つであり、高野山開山当初から開かれ弘法大師が都への往還に利用した西入り口の正門である。私がここを訪れるのは小学生のときの林間学校以来の二度目でとても懐かしい思いがする、その頃、朱塗りは剥落し枯淡の美の様相を呈していたが現在は昭和57年から3年にわたる大がかりな解体修理を受け壮麗に復元されている。










金剛力士像
 大門両脇の金剛力士像は浪速法橋の作である。....と、解説書にはある、....分からない....が、浪速の名がつくからには大阪の仏師なのだろうか?大門が元禄元年に炎上し宝永2年に再建されたというから江戸時代の仏師なのだろうかと想像してみる。とにかく私などが“実にいいできばえだ!”などと言ったら失礼なのだろうか...














参詣道
 積雪残る参詣道、凍てたアスファルトからはじわりと冷えが足先に伝わってくる。シ−ズンともなれば参詣客でにぎわうのだろうが今ごろの時期に出歩く人もいまい....。
 弘法大師空海は宝亀5年(774年)讃岐国多度郡(現在の四国香川県善通寺市)に生まれ、後年編集された談話集「御遺告」の中で「父母、偏(ひとえ)に慈しみ字(あざな)して貴物(とうともの)と号す」と自らも述べているように、父母と、その一族の庇護のもと恵まれた教育環境で育ったという


延暦7年(788)15歳で都(当時都は奈良平城京から長岡京へ遷都の途中。)に出て伯父である阿刀大足のもとで学び18歳で律令国家平安朝の最高学府である国学(現在でいうところの国立大学)に入学する。この段階で彼は一点の狂いもなく朝廷での高級官僚への道を進んでいたと言える、しかし空海は入学したその年かその翌年には「虚空蔵求聞持法」ア−カ−シャ=ガルバの真言と出会い、あっさりと律令官人への道を放棄し出奔する。



金堂と根本大塔
 金堂(写真左)は創建当時講堂と呼び弘法大師が伽藍造営の当初から建造されたという、往時にはここで空海の講義がなされたのだろう、現存の建物は昭和7年の再建。
 右の朱塗りの大塔が根本大塔と呼ばれる、内部には胎蔵界大日如来を本尊とし金剛界四仏が安置され、壁画の真言八祖像及び柱の十六菩薩は堂本印象の筆で曼荼羅世界を表徴しているという、一度は拝見してみたいと思う。しかし曼荼羅絵を受容できる感性を持つ人とはどういう人なのだろう?と、歩きながらふと考える。 

不動堂
 今回の高野山探訪に同行してくれたのはさすが家内ひとりだけだが根本大塔を見学し終え雪の中を歩く二人の傍ら、視界に入ったのがこの建物で、お互い瞬時にこのこの建物の優美さには心惹きつけられ、凍りつく空気の中しばらく鑑賞した。はからずも国宝であった。
 正確な建築年代は不明、建久8年(1197)鳥羽天皇の皇女八条女院の御願により建立されたと伝承される。



霊宝館
 山内における5千点にもおよぶ国宝、重文、県文化財や貴重な資料が保存されていて必見!高野山開山以来の密教美術の錐が集積されている。唐に渡り大陸の風を大きく吸い込んで花開いた平安期の仏像に比べ時代が下がれば下がるほど細部の技巧ばかりが眼につき次第に心うつような光彩が褪せてゆくように感じたのは私だけだろうか?仏像彫刻の時代毎の作風の変遷もまた興味深い。


金剛峯寺
 高野山の本坊であり、高野山真言宗3千ヶ寺の総本山で内部の広間、書院などに、狩野元信、狩野探幽、雪舟など歴史に名を残す絵師の襖絵がある。また、今回見たかった関白豊臣秀次切腹で有名な「柳の間」の拝見は霊宝館で時間をとりすぎたため拝観時間に間にあわず断念した、小学生のときの林間学校で一度見学したことがあり、以外と狭かったことを記憶しているがガイドブックの写真を見る限り広く感じる、間取りなどどうでもよいことなのだが一度確かめたいと思ったのと、その頃は「殺生関白の極悪人が秀吉の勘気に触れ切腹させられた。」と、教えられた通りの認識でしかなかったが、どうやらそうではないことは大人になった今わかる、自分が四十を過ぎてその部屋を見てどのように感じるか興味あった、いつの日かまた訪れたいと思う



 歴史上に空海のその名が登場するのは大学を出奔して7年を経た804年(延暦23年)突如(...と、言えると思う)、遣唐使留学僧として渡海を許可される。ちなみに時を同じくして遣唐使船に乗っていた最澄は宮廷の侍僧ともいうべき内供奉禅師の地位にあり還学生待遇(視察短期留学)に対し、空海はまったく無名の留学僧にすぎない。最澄はその留学費用を官費で賄われるのに対し空海のそれは自弁であった、むろんその資金の調達先についても謎はついてまわる。入唐した空海がその抜きん出た才能を発揮しはじめるのはその語学力と文章能力からだった。












 空海は自らの意志で一族一心の期待であるキャリアへの道をドロップアウトした。その後彼の消息は判然とはしない。ア−カ−シャ=カルバの真理を求めて大和や葛城、阿波山中を修行していたのだろうか、四国室戸岬で言念中に「.....心ニ観ズルニ明星口ニ入リ、虚空蔵光明照ラシ来ッテ....」と、修行中の超常体験を語ったことが後年、弟子の手で記録されている。また、紀伊半島、四国を東西に横断して九州に至る本邦地質中央構造線上の周囲に著名な銅山が存在していた事実と空海の修行踏破路とが結びつくことを密教研究の佐藤任氏の著作「空海のミステリ−」で紹介されている。その足跡は謎につつまれているのだ。














氷結する水向け地蔵
 奥の院御廟橋のたもと、玉川のほとりに並ぶ水向け地蔵、如来も観音も菩薩も...不動も...みな凍りつく.....
 空海は唐、長安で密教の第一人者、恵果和尚に伝法を受ける、空海はいわば書生の身で唐に入りながら数ヶ月の間で恵果率いる千余の門人の筆頭となったばかりでなく阿闍梨の位、所謂その法統の最高位を授けられた。当時の世界の文化文明の最先端をゆく都市長安の仏法界においてもこれは異常なことと映じたに違いない。







 空海は20年の任期をたった2年に満たない期間で留学を終えて日本に密教をもたらした。当時の日本で、その真新しい教義や体系、護摩、潅頂、曼荼羅絵などの儀式やツ−ルを宮中はじめ知識人達が大いに受け入れ、もてはやされたことは想像に難くない、また東大寺を中心とする旧来の奈良仏教に真っ向から対立していた最澄に対抗する象徴的な存在としても空海という人物が次第にその時流の中でクロ−ズアップされてゆく......















奥の院
 御廟橋は古くから弘法大師様が参詣者を橋までお迎えくださり、帰りはここまでお見送り下さると信じられていて、僧侶、参詣者はその行き帰りに合掌礼拝を欠かさない、この橋より向こうは撮影禁止、脱帽である。空海は宗教にとどまらず、医学、薬学、天文学、気象学、教育、文学、生活文化、土木、建設と、あらゆる方面で八面六臂の活躍をする、香川県にある満濃池は空海が修築したもので貯水量1540万トンを誇る日本一の農業用溜め池であり、現代に置き換えてみても土木工学に基づく驚くべき技術水準であるという。その他でも弘法ゆかりの...と名のつく井戸、泉の類は全国至るところに見受けることができる。 
 
 空海が唐から持ちかえった最新の思想、と科学技術は大いに創成まもない平安朝に貢献し、人々の生活に浸透していった。奈良東大寺別当、京都東寺を歴任した空海は816年、嵯峨天皇の勅許を得て、都より100キロも離れた海抜1000メ-トルの地、に真言密教の聖地高野山・金剛峯寺を開く。
 現代の凡俗な感覚でとらえれば、都で手腕を振るう能力も権力も持った人材はふつう未開の山岳に自ら身を置くことはない、言葉は悪いが都でぬくぬくとすることも充分できたはずだと考えてしまう。冬季ともなれば一切が凍りつくようなこの山岳の地を空海は選んだ、<即身成仏>という言葉が脳裏を過ぎる...。空海のカリスマは入定後1200年を経た今も脈々と生き続ける。 







石橋法衣店
 バス停苅萱堂前から西に歩いてすぐのところにある石橋法衣店。南天苑で従業員が作業用の制服にしている作務衣はこの石橋法衣店から調達している。そのため当館を「お寺さんの経営ですか?」と尋ねられるお客さんも多い...私自身普段着としても愛用していて一度その活動性と着心地の快適性を身で覚えてしまうと手放すことができなくなる。ただ、当館の経営はお寺さんとは関わりはないのでそれだけはこの場で一言ことわっておくとする。


大門食堂の肉うどん
 昼食にとった大門食堂の肉うどん、寒いときには熱いうどんにかぎる、空海の故郷は讃岐うどんの本場であり、空海はうどんの製法を伝えたと伝承される。おそらくそのころ日本に輸入されたであろう小麦粉は中国、唐でも当時最新の食品であったという、なにげに食すうどんだが考えてみればその湯気のむこうには遥か平安期の天才の微笑がみえるのかもしれない...と、そんなはずはないか....。





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