●金剛峯寺●
高野山の本坊であり、高野山真言宗3千ヶ寺の総本山で内部の広間、書院などに、狩野元信、狩野探幽、雪舟など歴史に名を残す絵師の襖絵がある。また、今回見たかった関白豊臣秀次切腹で有名な「柳の間」の拝見は霊宝館で時間をとりすぎたため拝観時間に間にあわず断念した、小学生のときの林間学校で一度見学したことがあり、以外と狭かったことを記憶しているがガイドブックの写真を見る限り広く感じる、間取りなどどうでもよいことなのだが一度確かめたいと思ったのと、その頃は「殺生関白の極悪人が秀吉の勘気に触れ切腹させられた。」と、教えられた通りの認識でしかなかったが、どうやらそうではないことは大人になった今わかる、自分が四十を過ぎてその部屋を見てどのように感じるか興味あった、いつの日かまた訪れたいと思う

歴史上に空海のその名が登場するのは大学を出奔して7年を経た804年(延暦23年)突如(...と、言えると思う)、遣唐使留学僧として渡海を許可される。ちなみに時を同じくして遣唐使船に乗っていた最澄は宮廷の侍僧ともいうべき内供奉禅師の地位にあり還学生待遇(視察短期留学)に対し、空海はまったく無名の留学僧にすぎない。最澄はその留学費用を官費で賄われるのに対し空海のそれは自弁であった、むろんその資金の調達先についても謎はついてまわる。入唐した空海がその抜きん出た才能を発揮しはじめるのはその語学力と文章能力からだった。
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空海は自らの意志で一族一心の期待であるキャリアへの道をドロップアウトした。その後彼の消息は判然とはしない。ア−カ−シャ=カルバの真理を求めて大和や葛城、阿波山中を修行していたのだろうか、四国室戸岬で言念中に「.....心ニ観ズルニ明星口ニ入リ、虚空蔵光明照ラシ来ッテ....」と、修行中の超常体験を語ったことが後年、弟子の手で記録されている。また、紀伊半島、四国を東西に横断して九州に至る本邦地質中央構造線上の周囲に著名な銅山が存在していた事実と空海の修行踏破路とが結びつくことを密教研究の佐藤任氏の著作「空海のミステリ−」で紹介されている。その足跡は謎につつまれているのだ。

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