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店主思い入れの地探訪
◆第10回◆ 

−粉河寺・根来寺−(和歌山県)
 12.Mar.2001
    

   数年前に、粉河、根来を周って来店されたお客様に「梅の花がとってもきれいでした!」と
いう話を聞いた...。話の脈絡は忘れてしまっていて、梅・粉河・根来..だけが、私の記憶に残って
いた、春風といえど、まだ肌に冷たき紀州路を、梅花を求めて走る...   


粉河寺
宝亀元年(770)に開創。「風猛山粉河寺」と称される。草創の由来には、この地の猟師、大伴孔子古 おおとものくじこ が、ある夜、風猛山で獣を追っていると、ふいに光がさした。この世ならぬ尊厳を目の当たりに見た孔子古は日頃の殺生を悔い、光のさした場所に草庵を結んだという...。





出現池
ある日、孔子古のもとに子ども姿の修行者が来て一夜の宿を求めた。翌朝、孔子古に何か望みはないかと尋ね、孔子古が仏像を求めていることを知り、七日の後に千手千眼観世音菩薩像を刻み、姿を消した。修行者は観音の化身童男行者であった。ときは宝亀元年のことで、観音像は今日なお伝えられる粉河寺本尊である。
出現池は、本尊の化身である童男行者が柳の枝を手に、白馬に乗ってこの池より出現したという伝説の池。  

 
 
仏足石
釈迦の足型を石面に刻んだもので、その大きさが偉大な人徳を象徴しているという、文久三年、願海上人が建立した。釈迦は『解脱』を説いた。この石塊をみて当の釈迦は何を思うのだろう?と、ふと考えてしまった。釈迦が悟りを開いたインドの聖地ブッダガヤ−にも後世の手によって建立された仏足石はある。ここでも往時、衆生はこの石を礼拝したのだろうか?今や仏足石も経文を刻まれる前の、元の姿に返ってゆく...  



中門の四天王像
三間一戸の規模を持つ中門は天保三年の再
建。十代紀州藩主徳川治宝とくがわはるとみ
直筆「風猛山」の扁額があげられている。 
中門内部には、四天王(持国天・増長天・広目天 ・多聞天)が、まつられる。今回、残念ながら、大門は改装工事中のため、見ることはできなかった。 



  
丈六堂
中門をくぐりぬけた正面に丈六堂があり、阿弥陀如来像がまつられている。堂は享保四年に再建されたもの、阿弥陀常印を結び、半眼で瞑想するその姿は、聡明な青年の面影を連想させる。 








本堂と庭園
粉河寺の庭園は、その崖地による高低差をたくみに利用した枯山水の庭園で、上田宗固の作庭と伝わる桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園である。庭園から仰ぎ見るように本堂は配置され、その威容をさらに効果的にしている。 







今回、粉河・根来へは家内と義母が同行して
くれた、母娘2人、蓬莱庭園で佇む...の図。  











踞木地
大伴孔子古が風猛山の山中で獣に向かい矢をつがえたところ、『踞』とは、見慣れない字だが、キョ・コ・うずくまる..とういう読みがある。ようするにこの木の下で隠れ潜み、うずくまって獲物を狙っていたのだろうか?粉河寺は神話めいた数々の物語にいろどられている。 














粉河味噌
粉河寺門前には名物粉河味噌の茶店があり、参詣者に梅昆布茶をふるまってくれる。最初にお茶をいただくと、「帰りには土産でも買ってくか...」ってなことになるので、この茶店には平日でも客足は絶えない...  









根来寺
粉河から車で20分程度走れば根来の里につく。南北を葛城連峰に囲まれ、菩提・大谷・蓮華の三つの谷がめぐって根来川に合流する、その関守のような位置に根来寺大門はある。 









根来寺は大治元年(1126)覚鑁上人(かくば
んしょうにん=興教大師)によって開創され
た。上人は13歳で京都仁和寺にて出家得
度し、京都・奈良で勉学に励み、永久2年
(1114)高野山に上る。その後も勉学を重
ね、空海の大成した密教に浄土思想を加え
ることで、より時代に応じて発展させた教義
を開くことに成功している。空海以来の思想
家・宗教家として評価を得て、30代後半、鳥
羽上皇の支援を受け「伝法会(でんぽうえ)」
の再興を果たし、さらに異例の抜擢ともいえ
る院宣によって高野山(金剛峰寺)の座主に
のぼりつめる。
覚鑁上人は根来寺創生ののち、49歳でそ
の生涯をとじるが、その法統は受継がれ、次
第に学問の寺としての名声を上げ、室町か
ら桃山時代にかけて隆盛を極めた。堂塔27
00・寺領72万石といわれるまでになり、江
戸時代式の石高換算でいえば有力外様大
名の島津藩に匹敵するほどの生産能力を持
ち、鉄砲や根来塗りなどの商工業製品も全
国に流通する。警護のための僧兵の勢力も
増強され、僧俗二万人以上がこの谷あいに
生活し、一大城郭宗教都市を形成してい
た。   











国宝大塔
高野山でも荘厳な大塔を見たが、根来寺
の大塔は、その大きさといい、迫力とい
い、言い知れぬ感慨が湧きあがる。
 いったい何なんだろう?木造のぬくもりか?懐かしさか…?とにかく手すりといい、縁側といい、歩いていてもその堂々たる感触が何とも言えずあたたかい。 


火縄銃の弾痕
天宝13年3月(1585)豊臣秀吉は根来寺を攻め
た。その前年、小牧・長久手の戦いで根来寺の僧
兵が徳川方に就き秀吉遠征中の大阪城を背後か
ら牽制したことへの報復であるという。




 秀吉による根来寺焼き討ちの結果、堂塔2700のことごとくが灰燼に帰し、この大塔と伝法堂の一部だけが唯一焼失 から免れた。秀吉軍が当地に乱入したとき、根来の僧兵はすでに全員が脱出しており、流血はなかったと伝えられているから、建物内部に兵が立て篭もっているかどうかを確かめるための威嚇発砲のようにも思える。 

大伝法堂
覚鑁は高野山で、伝法会を復興し、ここ根来
でも大伝法院を創建し、真言の教義の理解と
伝道に対して意欲的に取り組んだ。学究肌で
あり、理論家でもあったのだろう。
 伝法堂に安置されるているのは大日如来、金
剛薩捶・尊勝仏頂尊の三体。扉を大きく開放さ
れているのがよい。 





閑話休題
根来寺近くのレストランで昼食をとる。メニュ−に「南天招福松花堂」という弁当があったのは、同業者ながら、かなり意識したものだ。「三栖の粗食膳」というネ−ミングもなかなかよかった。 


梅畑
粉河・根来に梅林があると信じて出かけたはずだが、それらしきものは同地では見つけられぬまま、広域農道を使って帰途についた、その道すがら思いがけず、おびただしいくらいの満開の梅に出合った。「…梅が満開でねえ…」というお客様のご婦人が言った言葉は(そうか、これだったのかあ…)と気がついた。梅香に包まれる紀州路…季節ならではの楽しみですよ…

◆後日談◆
大阪府堺市在住のお客様より、
>その道すがら思いがけず、おびただしいくらいの満開の梅に出合った。とありますが、『桃の間違いじゃないでしょうか?』
とのご指摘でした。
たしかに、いまよく見ると桃ですね。
よって、正しくは
桃畑…のあやまりです。
この記事を書いたのが 12.Mar.2001 ですから、概ね、4年近く間違ったまま掲載していました。
もし、この記事を信じて出かけられた方がおられたらこの場をお借りしてお詫び申し上げます。m(_ _)m
そもそも、ご来店いただいたお客様の「梅の花がとってもきれい!」に始まり、同じ時期に行けば「梅」に会えると思った先入観が間違いの元ですね。以後気をつけます。

◆後々日談◆
先日(2005.4.29)、広域農道を通る機会にめぐまれました。
広域農道には桃もありますが、●梅●もたくさん植えられています。
余談ですが、柿、いちじくなどもたくさん植えられています。
手入れをされていた地元の農家のご婦人に伺ったところ、梅の開花は3月、桃はだいたい3月下旬から4月にかけて開花するとのこと。
ただし、畑の日当たりと、年によってはほとんど同時に咲いていることもあるとのことでした。
梅か桃かを特定しようと、4年前に写真を撮った場所を探しましたが、なにしろ記憶が曖昧…
記事中ほどの白い花のついたやつ撮影場所も特定でき、とにかく葉も梅でした。






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メール nantenen@e-oyu.com

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