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弘川寺・西行終焉の地を訪ねる(大阪府南河内郡)
春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり
西行
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歌人・西行に興味を持ったのは、
十数年前、藤田美術館で西行伝筆の一幅に出会ってから…。
にわかにも 風の涼しくなりぬるか 秋たつ日とは むべもいいける
よみ人知らず・西行・伝・筆とされる。ようするに詠んだ人は不詳だが西行が書いた「書」で
あると伝えられる高野切れの一幅。記憶のままなので正確であるかどうかの保証はない。この 時代にはときの階位が低いと「よみ人知らず」とされるようだが、仮に西行が詠んだ句ではない にしても何らかの意図を持って西行が書いたことはほぼ間違いがないし、何より覚え易い。 三度ほど暗誦して諳んじることができる。
西行の歌ほどすんなり心の内部に入ってくる歌はない。あまり歌に詳しくはないが、その頃の
貴族の生活や社会環境まで併せて考慮しなければならなかったり、ときの職業歌人が技巧を 弄したような歌もあまり好きではない。前段階での勉強が必要な歌に、私自身はなかなか共感 できる深みにまで達することができない。もしくは私にそこまでの余裕がないか…。
西行の歌に、ある意味、辞世のような迫真性を持つ歌が多いと思うのは私だけか。
とにかく、以来…私はどんな炎暑の夏も、ある時期がくれば毎年のように前述の、よみ人知ら
ず・西行・伝・筆の句を思い出し、その度に西行のことを思い出す。その季節ともなれば、夏の 南風とは違う微かな涼風に、たしかに秋の訪れを感じるし、それは900年の時間を飛び越えて 感じる同じ風のように思えるからだ。
今回は南河内郡河南町、西行終焉の地・弘川寺を紹介する。
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【弘川寺】
弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺
で、本尊は薬師如来。西行終焉の地としてその名を知られる。 ![]()
【西行堂】
本堂を見下ろす場所にある西行堂。
西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立された。
晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのだろうか。 ![]()
【西行墳】
江戸中期の歌僧似雲によって再興された西行墳。
今は文字通り桜花の花びらで敷き詰められた地の下に眠る西行法師。
私達がここを訪れた日は、花も見頃の時期を過ぎ、ひっそりと静謐な時間が流れていた。
仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を 人とぶらわば
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西行の歌が好きで、毎年弘川寺を訪れるというニ胡奏者・鳴尾牧子さん。
偶然、西行墳でお会いし、お互いびっくりしました。
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西行が生涯を通して愛した桜の美しさ。
早春から開花を待ちこがれ、咲いたかと思えば、惜しまれて散りゆく姿もまた美しい。
西行は、1118年に田仲の庄(現在の和歌山県那賀郡打田町)に奥州藤原家と同じ流れをくむ
武門の佐藤家に生まれ佐藤義清(のりきよ)という。18歳のときに宮中に北面の武士として平清 盛らと同じ鳥羽天皇の警護の職に就くが23歳で突然出家する。 ![]()
西行の出家の理由については、鳥羽天皇の中宮である待賢門院に武士である西行が恋をし
たからだとか、親友の佐藤範康の急死であるとか諸説推量されている。なかでも西行発心の おこりを待賢門院への『恋心』とすれば、西行の歌を知るものにとっていにしえの風雅な王朝ロ マンをかきたてる。
待賢門院璋子は白川法皇の后祇園女房の養女として育ち、法皇の寵愛を受けて育つ。17歳
のときに15歳の鳥羽帝の中宮となり、後の崇徳帝を産むが、崇徳は鳥羽帝の祖父である白川 法皇の子であるらしい。複雑である…。また備後守季通や「宮の律師」増資の童子とも噂され たというから、よほど美しく恋多き女性だったのだろう。西行が突然出家した2年後に待賢門院 が42歳で落髪。京都嵯峨野の入り口にあたる法金剛院に入った。また出家した西行は待賢門 院が45歳で亡くなるのを見届けるようにしてその翌年に都を去ったことからも、西行が17歳年 上の女性に恋していたと想像しても不思議ではない。 ![]()
西行は29歳で陸奥へ旅立ち、その後高野山に入り30年ほどを高野山で過ごし、この間に京
都、吉野、四国などに足を向け、多くの歌を残している。西行の歌の中に「無常」や「虚空」の 思いを感じるのはなぜか、何か抑圧されたえもいえぬ感情が隠されているような気がしてなら ない。しかしそれは誰もが心の底流に持っているもので、誰に言えるものでもなく凡そ言葉にし て言い表せるものではないのかもしれない。西行はそれを歌にかえ、花にかえ、風にのせ、私 たちに聞かせてくれるゆえに多くの人の胸を打つのだと思う。
西行は63歳のときに高野山から伊勢に移り、伊勢神宮で詠んだとされる句。
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる
後世、千利休が切腹の前に、古田織部に贈った茶杓「泪」の銘はこの下の句が元だということ
を何かの本で呼んだ記憶があって散々探したが、その本も文章も見つけられず定かではな い。
1185年、壇ノ浦で平氏が滅亡。
同じ北面の武士であり、保元の乱・平治の乱で源氏をおさえて中央政界に進出。虚々実々の
権力闘争に勝ちぬいて栄耀栄華を築いた平清盛もこのときはすでになく、その一族までも海の 中に消えてしまった。
同時代を生きた西行にとってどのように映じたのだろう。
1186年、西行は東大寺再建の勧進のため、再び陸奥に旅立つ。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
風になびく富士の煙の空にきえて 行方も知らぬわが思ひかな
1189年、陸奥の旅から帰った西行はここ弘川寺に入る。
願わくは 花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ
翌年、西行は自ら詠んだ歌の通り、この地で73歳の生涯を閉じる
文治6年(1190)2月16日(旧暦)。奇しくも釈迦が入滅し、空海が入定し
た同じ日である。
如月の望月のころ…とは…、研究されていて新暦の3月29日にあたるそうだ。
もちろんここ弘川寺の桜も満開であったにちがいない。
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【西行記念館】
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